nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

自分なら払いますか

それは、お金の取れるお茶になっているのか。

「お金の取れる」。端的にいえばメニューとして価格が付けられているお茶がそのひとつです。
 
カフェやホテル、飲食店など様々です。数百円から千数百円。他の飲料の原価からすると日本茶は決して安くは無く、日常の茶とは異なる上質なともなれば原価は馬鹿にならないものです。
 
注文して美味しいと思わなければ、再度の注文はないのはいずこも同じです。土産物売り場のように、一見のお客さまだけを主にしている展開であるならまだしも、そうでなければ厳しくなっていくのは世の常。お店の閉店理由はそのほとんどがお客さまが来ないことです。
  
また注文して貰えるような一杯になっているのか?これはかなり重要です。生産者も含めた納品業者はその一杯の値段を自分なら支払えるのか、リピーターとなれるのかを考えてみるといいでしょう。
 
そして、メニューになっても大手チェーンなのでも無い限り、爆発的に数字が伸びるなどということはありません。幾多のメニューのうちのひとつであり、一回の使用量は数グラムなのですから。

そう言うあなたこそ

家庭に急須が無いとの記事や報道を目にしますが歴史を振り返れば、品質の良し悪しを別にしてここまで急須があまねく家庭にある時代の方が珍しいでしょう。

低価格であれば100均のお店でも急須の様なものは手に入りますし、納戸などを探せば頂き物としてそのまま眠っている物があるかも知れません。

少なくとも、日本においては平型急須の様な形を目にして、急須であると即時に判断出来る方ばかりです。急須を知っている人が如何に多いのかが窺われる事例であり、この文章を読んで何故と思われることがその解でもあります。

使っていれる楽しさと美味しさの発見を地道に伝えることです。生産者、販売、研究者も含めて諸々が日々使いもせず、飲んでもいない物を売ろうなどとするのがそもそも間違いなのですよ。

急須が家庭にの言葉を発する者ほど急須を使ってもいないし、お茶をいれてもいない節が見られるのは皮肉なものです。

王子様や騎兵隊

他の産業と同じく、お茶も急須も需要の拡大に対して供給が間に合わない形で拡大していきました。近年の抹茶(粉体の茶)が奮ったのも構造としては変わらないでしょう。

どちらにせよ、その様な状態は需要減、供給過多の過程で低価格化に向かうのは必然です。商いは日々、年々で移ろうものであり、特にアクションを起こさずに淡々と売れている状態で終われる人は幸運な部類に入るのだと思います。

下り坂の産業には行政側からのてこ入れとして、業界外から実際の販売経験を伴わないコンサルタントや顧客が合わない守備範囲外の成功例などを掲げたセミナーなどが開催される様子が見られます。担当者も仕事としてしている事なのでここに是非はなく、参加側がどの様な意図を持っているかの方が重要で、参加しながら質問ひとつ浮かばないようであれば、その方が問題です。

大事なのは、自分がどんな風に商いをしたいのかを先にイメージ出来るのか。そして、それは商いとして成り立ち、生活を支えられるのかです。その為には何をしなくてはいけないのかなのでしょう。

王子様や騎兵隊が突如として現れることなど現実にはほぼ無いのですから。

人に優しく

一杯の茶を口にした時に洩れる言葉と湧きあがる想い。

日本ではチャノキと表される樹木の芽や葉から作られる飲料。チャノキは有用な植物で、おおよそどの様にしても飲用が可能となり、毒性もほぼ無い。
技術の巧拙を問わず、湯や水以外の何かをと欲する人の欲に応えた稀有な存在がチャノキ でもある。

その懐の深さに甘えることなく、湯や水以外の更に上を目指そうとしたときもチャノキは許容し、特別な何かを見せる。人に寄り添ってくれる不思議な樹だといつも思う。

人種や職業の枠を越えて、僅かな道具だけで呈された一杯の茶を飲み、ある者は海を越えてこの国に来れたことを喜び、ある者はもう何も口にしたくないと、そして、その一杯を呈した者はそれに連なる恩師や人への想いに心が静かに震える。

お茶とはいいものだ。こんなに人に優しい存在を私は他に知らない。

手順の一歩先へ。

「お茶をいれる」のに大事なのは何か?

何g、何℃、何分といった手順をなぞるのではなく、先ず最初に「どんな香味にいれるか」をイメージして、そうなるようにいれるのです。

抜栓して注げば完成のR.T.Dと異なり、狙った香味のお茶をつくる事が出来なければ、マリアージュも何もあったものではないでしょう。

再現性を高めて、狙った香味の一杯の茶を作ること。

0.5煎なのか、0.8煎なのか、1.2煎なのかをコントロールする、それを考えられること。

煎を重ねて、香味が変化する茶ならではの面白さはここにあります。

そして、狙いに対して、茶や品種、急須や器を選ぶのです。

未完成の一杯

試飲販売などで私が心掛けているのは、如何にして「私」がお茶をいれないかです。

茶葉を茶袋や茶缶から取るところからご覧いただき、お茶を注ぐまで急須には出来るだけ触れずにいます。

常温の水を使っていれたり、冷茶などをフィルターインボトルなどでご用意するのも同じ理由です。

試飲用の器も環境などについて気にならなくもありませんが紙コップが基本です。

それなりの年数を茶に関わっていますので、飲む器の重要性についても知らない方では無いでしょう。

茶葉を急須の中でどう動かすのか、傾けるスピードや緩急などのコントロールで香味を変えられることについても多分、多くの人よりも長じているのではと思います。

では何故それをしないのかとなれば、私のしているのは「試飲販売」であり、喫茶でもお茶会でも無いからです。

買って帰っていただいたお茶を家でもっと美味しく。
私の試飲が香味のボトムラインであること。そのレベルであっても美味しいことです。

家で飲んでも美味しかった、気に入った急須を使えて楽しいの声こそが嬉しい言葉なのです。

七夕

20世紀が終わる寸前、茶販売を仕事とした頃、茶の事もよく分からず、取引先の言葉の中で都合の良い部分だけを利用し、ただ闇雲に産地や製法の優位性に縋るようだったのを思い出します。振り返ると苦笑いと共に、滑稽なほど必死で意固地だったのだなとも。

不思議なもので、そうしていると手を差し伸べられるが如くに自らの矮小さに気づくような兆しがあるものです。
意図したわけでは無く出会い、招かれ、知る事になる。後に「縁」という言葉を使う事になるような。

「オレのお茶は好みじゃないと思うけど。」と目を細めて笑う顔。

人柄に触れ、園地を見、品物を知り、茶業者になって心から良かったと思ったのはその人のお茶を扱うと決めた時でした。

形だけの形状モノのお茶一辺倒のポリシーなんて紙くず以下の虚勢でしかないと気づかせてくれたのは山間地で手摘みされた粉のような品種茶。このお茶との縁が無ければ茶業者を続けていなかったかも知れません。

弾む心で川沿いの道を走らせた頃。時間さえあれば園地を見て写真を撮り、話しを聞き、夢のような事を話す日々。

今は年に一度、その道を登ります。
一年間にあったことを報告に。
 
あなたのいない世界はやっぱり少し寂しいよと呟いてしまう日が、今日。