nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

産地でのモノづくり

生活雑器として望まれ、その中で偶さかに極めて高い精度を要求され応えて来たのが常滑急須です。

常滑で急須を作ること。
 
国産の陶製急須で最大の生産量を誇る土地で急須をつくる。ベテランの職人が急須づくりを日常としている土地での新規参入はハードルが高いことでしょう。
 
使い勝手の良さを追えば、基本形はかなり狭められ、デザインの自由度は限られます。そして、殆どの挑戦は既にされています。急須は構成部品の多い焼物で、分業になっていないそれは仕事に一言ある人達がいる環境をつくります。
 
新たに急須づくりを志す人が息苦しさを感じて、そこから飛び出してしまうのもわからなくはありませんし、一般の方の優しい言葉に安心してしまう事もあるでしょう。でも、やはり踏みとどまって先人に教えられながらモノづくりを続け、自分ならではの製品を作れるようになってくれたらと願っています。
 
日常生活の中で触れられる稀有な焼物が常滑急須であること。この言葉が形骸とならずに未来に繋がればと切に思います。
 
 
以上は急須に限りません。産地でモノづくりをするという事は全て同じです。急須の文字がそのまま茶に置き換えられる事に気づかれる方も多い筈です。

昔ながらの幻想

昔ながらの方法に過大な期待をするのは一般の方か、広告などを仕事にしている方がイメージを利用して媒体作ってしまう場合が多いようです。
 
馬車から自動車、動力の人力から電化などの例を見るまでもありません。工夫と失敗の積み重ねの先に今の私たちの生活や仕事があります。

「楽に」ではなく、「もっと良い品を」。出来なかった事をやれるようにしていく。それが技術を活かすという事です。品種の導入や製茶機械に関連する様々な機器は今でしか作れない良茶の生産を可能にもしています。
 
マンパチ(蒸籠)の時代にはコントロール出来ないような一瞬の蒸熱や、パワフルな粗揉機の登場はそれまでには作れなかった茶の製造を可能にしました。
 
茶製造において製茶機械は道具であって、使うモノであり使われるモノではありません。この機械は茶葉に対して何をしているのかを理解してこそ意味が見えてきます。
 
ボタンの掛け違いが始まるのは楽をしてお金になる事へ偏った時なのでしょう。
 
これは茶に限った事でもなく、皆さんのまわりでも気づく部分がある筈です。

お茶の保管

お茶の保管に関して、茶缶はどの様なものがいいのでしょうとご質問をいただく事があります。
錫(ピューター)や銅は元より、木製、他の金属製の茶缶もあります。
見た目は良くてもダメなのはアクリルやプラスチック、ガラスなど遮光性の低いものです。これは茶袋でも同じです。

加工しやすい金属であったから作られたもの、材料として豊富であったり、流用出来る加工技術や道具があったからと考えるのが自然です。

さて、今の時代において茶の常温保管でいいのは真空断熱がされた小型のフードコンテナなどだろうと思えます。遮光性、密閉性も高く、温度変化も少ない容器だからです。

ざっと調べると値段も2000円前後ですので試されてみてはいかがでしょうか。

お茶屋としては開封後は速やかに使っていただきたいとの気持ちなのですけれど情報までに。

今が行き時

常滑に行かれるのであれば、泊まり掛けをオススメします。

京都や奈良のように荘厳華麗な神社仏閣などはありませんけれど、焼き物が産業となり生活に溶け込んだ土地は見所がいっぱいです。

次に行った時に、と思われるかも知れませんが次というのは中々来ないものです。
どうせなら、最初から一泊の予定で。駆け足では大事なものを見落としがちになってしまいます。

常滑は暑さ寒さの厳しいところですが、これからはとてもいい季節です。

歴史にならない昔

先日、担当させていただいた大学の授業にて1981年のテレビ放送を題材とした時、私達はまだ生まれていませんとの声。
当時生まれた人が36歳。彼、彼女達よりも16歳年上になるのかと改めて考えた一瞬でした。

さて、番組は味付けの茶(着味茶)が東京の消費者センターに持ち込まれたとの話題から始まり、直接被服のカブセ茶が急速に広まった事と在来からやぶきたへの改植が一気に進んでいる様子などを伝える内容。
 
茶業者であっても意識していなければこの様な事があったことを知らない人も多いでしょう。歴史とされるような大昔の話でもなく、今の私達に直結している時代なのですけれど。

世界の縮図

きっと多くの人が自らのフィールドでは気づいている事と思うのですが、仕事としているからといって、その事の専門的な知識を有している訳でもない事。雇われている人であれば尚更である事。

自分のいる場所は世界を形作るもののひとつであって業態が変わっても大きくは変わりません。

例えば、生産者を含めた茶業関係者であっても茶の専門的な知識を持っているわけでは無いのが現実です。茶器問屋や販売店であっても同じです。既に出来上がった環境でのルーチンワークになっているのも理由のひとつで、儲かった時代があって出来た仕事は往々にしてそうなりがちです。

どの分野であっても、分かりたい、知りたい、もっといいモノをと思う気持ちを持ち続けない限り、専門的な知見や技術を有する者にはなれないのです。
 
及ばずながらと日々、学び過ごしても、向こう岸は霞んで見えないものだなと苦笑いするのが常であり、ゆえに面白いのです。
 
きっと何事も同じなのでしょう。

無責任の発露

この際、ハッキリさせよう。
 
茶に関しての品質や価値判断を美味しいや不味いといったあやふやな感覚でしか出来ない一般の消費者を巻き込み、評価をさせて商品価値を付けようとするようなイベントや試みは無責任の発露。
 
評価や拝見は栽培や製茶についての知見を有した者が行うべきもので、品質について明確に説明が出来る事が最低条件だ。