nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

効率と呼ばれる針の穴

便利な世の中です。インターネットを通じた連絡や交流は数百キロ、数千キロの距離を一瞬に縮めます。インターネットと言わずとも、電話でも連絡は事足りて書類も郵便で送れます。

仕事の効率で考えれば既存の取引先数件へ早朝からクルマを走らせ、それぞれに打ち合わせと報告などは必要ない事なのかとも思います。

それがわかっていても、事ある毎に実際に会って話す機会をつくる様にしています。

その理由は効率と呼ばれる針の穴の外に大事なものがあると知っているからです。

 
視野の中心から外れたところにヒントがあったり、インターネットでは伝わらない空気感であったり。これも又、行間なのでしょう。

値段分の満足と品物

常滑焼の急須を見ていて思うのは、大人の買い物としてこんなに手軽に満足度のある品は他に無いのではないだろうかです。
 
工作機械による製造ではなく、ほぼ100パーセント職人のハンドメイドで価格は3万円程度で手に入ります。
 
その金額で手に入る消えモノでは無い、一級品は他に何があるのだろうと考えると即答に時間が掛かります。
 
身の回りを見まわして、鞄、時計、靴、服、カメラ、どれもその価格で満足度が得られるのかとなれば疑問です。
 
人は買い得な品を手にした時、とても嬉しそうです。百貨店での販売時、急須をお買い求めになられる皆様の表情が一様に嬉しそうなのには理由がちゃんとあるのです。
 
今が買い時です。売り言葉でも何でもなく、心からそう思います。
 

物語も味のうちだけど

私の様な商いをしていますと、お客さまがご自分の買われたお茶などをお持ちくださる事があります。
その中で最近、気がつくのは産直品の物語だおれのお茶です。
 
有機、最古樹、新月、満月といったコピーが躍りますが品質チェックが出来たならとてもその名で販売する事ははばかられるような物が多過ぎるように思えます。
 
物語も味のうちですが、やはり、最も大切なのはコピーと内容が釣り合っている事です。
 
摘期を逸した荒茶紛いの製品や、葉痛みや殺青不良の茶などが過剰なコピーで販売されているのを見ると 生産者が製品の拝見をし、どの様な品質であるのかを自ら確認出来るだけの能力を持つのはそんなに難しい事なのかと残念になります。

日本茶の特徴

日本茶の大きな特徴は何か?歴史を振り返って考えると、製茶の機械化と気づきます。

特に揉む工程は茶葉をひと固まりで一度に処理をするもので、流れ作業では行い難い仕事です。
手製茶で考えると手で扱える量がそのひと固まりになります。
このような仕事は全体の流れでのボトルネックになる部分であり、 人工の数がそのまま作業量へ直結するので、ここに機械が導入出来れば飛躍的に作業効率は上がります。蒸し製では粗揉機、紅茶では揉捻機です。
 
工業化と共に日本の製茶は歩んで来ました。近現代から現代に到る日本茶の歴史は摘採も含めて機械化を進めた歴史でもあるでしょう。関わる人工の少なさと生産量、製品の品質に着目すれば日本は製茶に関して世界最先端であると言えます。
 
世界に目を向けても、産業としての茶において製茶の機械化は必須になり、茶が成長産業として期待されてる中国で機械化が進められていくのは当然の動きでしょう。
かつての日本の様にゆっくり進む事などなく、既にある工業力とコンピューターのシミュレートなどが取り入れられていけば、リープフロッグ的に進化するのではないかとも思っています。
 
自由貿易後、約100年をかけて機械製茶で良茶の生産を可能にしたのが今の日本です。香味においても手製茶の時代のそれを凌駕しています。

良質な蒸し製緑茶は日本ならではのキャラクターを有し、茶種として「緑茶」で括ってしまうのは勿体ないほどですが、多くの方がそれに気がつかずにいます。茶を産する国であり、茶が身近にあるが故なのかも知れません。

途切れることなく

昨夜半、打ち合わせの電話。そろそろお金のとれるお茶のいれ方に踏み込んでみように始まり、気がつけばの昔話に。

風景の中にまだ紺色と緑の人民服と自転車が溢れる頃、哈爾浜で日本茶をいれた時の記憶や、家の近くに出来た蕎麦屋に足繁く通った事、品種茶を扱う事になった経緯など。

人との出会い、別れ、縦糸と横糸が絡み合うような出来事の先に今があり、全てが繋がっているのだと。そして、繋がっていると言えるような選択をしてきた事、それが出来た僥倖。

物語のようで不思議な縁だと思います。

本当にそうだね。これもまだ道の途中だよ。私より若い君は更に先へ行っておいで。
この出会いが幸運なのか不運なのか私には判断出来かねるけれど。

ともあれ、やれることをして、そして出来ないことは出来るようにしよう。詳細はまた。

ありがとうございます。お願いします。

礼の声が耳に届き、電話を置いた。

ふと、私が茶に関わった際に決定的な人との出会いがあったのは彼が私と同い年の時だったと思い当たった。
面白いものだ。

茶の紡ぐ物語 摩利支

「日本に来て良かった」の言葉で終わる書籍の校正が昨日完了。最終稿ですとのタイトルのデータが届いた。

これを読むなら、やはり、日本茶を傍らにと思い、18年ほど前に、オリジナル急須をと取り組んだ当時の品を棚から取り出した。

この急須の年の離れた兄弟は世界を旅していると言うのだから、何とも愉快なものだ。いれるお茶はやはり、TOP OF THE EAST。

最初の原稿を読んだのは6月中頃だった。これは手強いなあと苦笑いしながらプリントアウトした頁を繰っていったのを思い出す。

諦めない事、前を向く事、真摯である事、情熱を常に、人との出会い、別れ、きっと誰の日常にもある出来事なのだろう。彼が特別なわけでものない事を読んだ人は気がつくのだと思う。

私の立ち位置は少々異なる。自らの扱い品は日本茶のカフェのメニューに成り得る断言し、いれ方、見せ方などを含めて組み上げたものが、今はもう無い東京の和カフェで採用されたのがこの物語の始まりだった。メニューの名前は「摩利支」そして「大葉水香」。

「お茶に熱心な若い衆だなあ。俺のお茶は好みじゃないだろうけど、見においで。」と笑顔で声をかけてくれた生産家。摩利支と名付けられた深蒸し茶、生産家の人柄、産地のロケーションは自らの狭隘な性根を打ち壊すには十分だった。出会ってからの4年間は本当に楽しくてしょうがなかった。この4年があったからこそ今の自分がいるのは疑うべくもない。

生産家の命日にまたがる日、偶さかに青い目の筆者と席を同じくして本の校正をし、2004年産の摩利支をいれた。カフェのメニューそのままのいれ方で。ひとつの茶が紡ぐ縁とは不思議なものだと染々と思う。

現実は小説よりもドラマチックで面白いものなのだろう。

お茶とはいいものだ。味や香りだけでなく、関わる人も、世界観も全てひっくるめて。

シングルオリジンの日本茶

近年目にする「シングルオリジン」といった単語。耳触りも良いいい言葉で、単園モノや単品のお茶などと表現していた事に懐かしさを覚えます。この様なカテゴリーの茶を扱うキャリアで言えば私は古株となるのでしょう。
 
さて、シングルオリジンのお茶は良茶なのか?と言われれば、良い茶もあるし、ダメな茶もある。正直、出来の良く無い、不安定な茶の方が多いがその答えです。
 
ワインに詳しい人であれば、全てのドメーヌのワインが必ずしも上質ではなく、ネゴシアンが関係したワインの方が質の良いモノがあるでしょうと言えばわかりやすいかも知れません。
 
また、どの様に摘採精度の高い荒茶であってもその製造現場に立ち会った者であれば、それは商品にはならない「原料茶」であると気がつきます。手摘みであってもそうなのですから、ハサミ(手摘み以外の摘採)ならば更にです。
 
シングルオリジンの茶がその言葉からイメージされる品質となり得るのは良質な荒茶を、仕上げの技術に優れた者が内容を判断し仕上げをしてこそです。
 
仕上げは荒茶を作るのとは別の道具と技術が必要です。生産者と買い手が共に茶の知識と技術を有した時にしか、本当の意味での品質を有したシングルオリジンの日本茶は存在しません。
 
シングルオリジンをただの産直としてしまうのか、これまでの歴史では流通しにくかった価値を有す特別な茶とするのかは取り組む者と購入する者に掛かっています。
 
いい言葉です。それを便利な売り言葉とする事無く、個性豊かな良茶を現す言葉として根付いていくことを願う次第です。