存在しない品評会茶
実際の話からすれば「全国品評会」やそれに類する基準の出品茶は一般的に流通する茶の原料となる荒茶とは乖離した製品です。その最も顕著なのが「深蒸し茶」とされたお茶でしょう。
通常に流通している「煎茶(普通蒸し)」「深蒸し煎茶」などは生産者が自己申告で作っているもので基準はありません。
これが普通蒸し?と首をかしげるような物はよく見かけます。一般向けに販売されている茶は色を意識して破砕されたお茶を混ぜていることもあります。
販売品は蒸し製の緑茶で形状のある製品と粉状になった製品くらいの違いしかないのが現状です。
普通蒸しとされた製品よりも蒸けていない、青臭くて苦味のある深蒸し茶は少なくありません。
この様な状況故に、品評会のお茶は乖離せざるを得ないのです。品評会は荒茶の製造基準を揃える為のものである事に気づければ容易に理解出来ます。
さて、生産の現場を見れば、この流れが変わることは無いでしょう。鮮度感と水色に依存した製品づくりの方が生産効率は高く、また、製茶機械が大型化しその方向へシフトしたのはもう過去のことで、今更の方向転換は出来ない。これは何もお茶に限ったことでもありません。
品種ごとの差を感じなくなり、どこでも同じお茶が作れるようになれば、生産時期は早ければ早いほどいい。年間の平均単価が三桁/㎏でも継続生産が出来るような経営。園地から荒茶製造までを含めて工業製品としての「茶」を目指す。
加えて先日の碾茶や抹茶に関しての基準緩和のニュースは茶の買い手が、茶業者から食品関係商社や食品メーカーに変わっていく事も表しています。いよいよ、苛烈な戦いとなるのが感じられます。
そこに巻き込まれないようにするにはどうするのか?
それこそが中山間地生産茶のテーマであり、同じ方向での勝負では勝ち目は無いことは誰でもわかることです。元来、いいモノとは沢山は出来ないモノです。それが手作りに近くなればなるほどです。メインストリームには端からなる筈がない。これは、今までの茶の歴史を振り返っても変わりません。