nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

良かったね、日本茶に出会えて。機会があったら又、おいで。

大雨の夜。
茶工場からの山道を駅へ向かった。後部座席には金髪の若者。友人のお店のお客様とのこと。お茶が好きで、下手な日本人よりも流暢に日本語を話し、折り目正しい。
 
日本茶を学ぼうと勉強し、探し、日本に行けばもっと色々なお茶があるんだと思っていたのに、同じようなお茶ばかりでつまらないと悲しくなりました。
 
彼の視点から見た日本茶は確かにその通りだった。
 
そんな折に友人のお店を訪れて日本茶の楽しさに触れたのだという。
 
会計を済ませて外に出た彼は店内に向かって何度もお辞儀をして帰っていったそうだ。これはお茶が美味しかっただけではなかったのだろう。日本語と日本茶について学び、美味しい日本茶を探したのは三年間に及んだというのだから。
 
何故、日本茶は個性が無くつまらないとされるのか。
そんなコトは無いと反論する茶業関係者は多いだろう。単細胞な輩はガイジンにはわからないよと言うのかも知れない。
 
実際に彼の言うとおりなのだ。大量に出回る日本茶は確かにつまらない。業者が違うとどんなに息巻いたところで大差はない。何故ならそのように作られる歴史を歩んで来たからだ。
 
標高800mの園地へ訪れ、茶の生産、製造を見る目、質問の声は常に真摯だ。そして何より、日本ならではの香味溢れる美しいお茶に触れた彼の顔はずっと笑顔だった。
 
雨の落ちる駅のロータリー。終電が出る僅か4分前に到着。「挨拶はいいから急ぎな。」と声を掛けて送り出す。
 
走り去る姿をミラーで捉えて去来する言葉。
 
「良かったね、日本茶に出会えて。機会があったら又、おいで。」
 
クラッチを踏み込んで、ギヤをローに。
特別ではない私の日常に感謝。

21世紀、日本茶の新しい扉は開いたばかり。お互いに学び、頑張ろう。そして、もっとお茶を楽しもう。

チャンスがあるなら一番素晴らしいものを見た方がいい。取材であるかどうかを私は気にしない。いつものようにする。それでいいだろう。
ならあの山の茶園へ行こう。そこでお茶を飲もう。君が初めて見た年よりも今年の園は素晴らしい。そういえば、あの園地のお茶の木達はきっと君と同い年くらいの筈だよ。

今はお茶の知識や経験は私に届かないけれど、必ず私以上のことが分かるようになり出来るようになる。

ちゃんと学び、そして、分からない事が苦しくとも、分からないまま諦めずに重ね、今ある部品で仮説を組み上げてみる。そして信頼出来ると思えた人にその仮説を尋ねてみることだよ。尋ねられた者なりの知識で仮説を考えてくれるだろう。それはお互いのためでもあるんだ。重ねた何かが間違っていたら、固執せずにそれを崩す事を恐れないこと。それを繰り返すんだ。何故だろうの気持ちを常に持って。
 
君がわからないと思ってる以上に、私の方がきっともっとわからないと感じているよ。お茶とは知れば知る程に、わからない事が増えるものなのだから。
 
私が君に期待しているのは、お茶で君自身が幸せになって欲しいという事しかない。そして、茶を通じて君が君の回りの人、縁がある人を幸せに出来るように。 
そのためには協力するし、知識も渡そう。それが先に生を受けて学んできた者の当然の役割であり、生きるということなんだ。
外国人であるかどうかではなく、人としてお茶のことを知ろうとして一生懸命だから私はそうするんだよ。
かつて、先人が私にしてくれたように。
 
21世紀、日本茶の新しい扉は開いたばかり。お互いに学び、頑張ろう。そして、もっとお茶を楽しもう。
大袈裟かもしれないけれど、人生をかけて楽しめるのがお茶だよ。それだけは間違いない。

※2016年12月18日放送 NHK 「サキどり「日本茶を世界へ!外国人の伝道師」の取材の際に茶園であったやりとりとその様子です。

世の中に売っていないモノを売れたらいいなあ

私は本当に大切で良いモノは、きっと売っていないのだろうと思っています。

値段では無く、親戚や知り合いが「山に行って来たんだよ。」といいながらくれる山の幸や、「季節だからなあ。」と手渡してくれる釣ったばかりの鮎。どれも販売の流れには乗らないモノです。気持ちも鮮度も「売り物」はとても敵いません。

値段分の品質を維持し、年間安定を主軸とした「茶」。カタログ写真に則した製品を納品する「急須」が売っているモノ。それは消費が旺盛で安定供給が目的であった時代の鏡です。

年間たった10㎏しか生産量が無い単品の仕上げ茶。焼ける度に明らかに出来栄えの異な常滑急須。
量が少なく、多くの業者さん達のような大きな売り上げは作れない品です。

どれも数十年前には「商品」として売っていないモノでした。

「それしかないの?」
「1個だけ?」

驚かれる方、それじゃあ商売にならないでしょうと半ば呆れた表情をなさる業者さんは勿論いらっしゃいます。

作り手の
「大事に売ってくれてありがとう。」
「今度はこんな風に焼けたよ。」
 
お客さまの
「今年のお茶は甘い味になりましたね。」
「素敵な景色の急須ですね。心惹かれます。」

私の言葉はどちらへも
「ありがとうございます。」
 
茶業や窯業といった大きな産業の中で、ひっそりと楽しく商いをさせていただけているなと思います。これからも、世の中に売っていないモノを売れたらいいなの気持ちを抱えながら。

皆さま、ありがとうございます。

良い品を未来に繋げられないのは誰のせい?

「君みたいに話して伝えなくてはもう品物は売れないのかねえ。」

「難しいでしょうね。今のお客様のほとんどが好き・嫌いくらいでしか品物を見ることが出来ていません。良い・悪いではないのです。良い品の”良い部分”を伝えなくてはいけないでしょう。」

「以前は違ったと思うのだけれどね。」

「数十年をかけて、良い品物を真似た品物が溢れました。漆器みたいに見えるプラスチックの器、手書きのように見えるただのプリント、便利と言う言葉で飾ったガラクタ。どれも安くてそこらじゅうに有ります。本物の方が少ないと言ってもいい。安いものを買う時、人は大して考えないので、どんどんバカになり、品物を見ている気で見ているのは値札か、もしくはコマーシャルのタレントの顔。商品づくりとは全く関係がないタレントを使うのは売りやすくする為だけです。
昔は売る側に商品知識があり、販売時にその品物の良いところなどをちゃんと伝え、顧客も勉強をしたのだと思います。これからの時代、良い品が作られる環境を残していくことをするのなら、顧客を目利きにしていかなくてはいけないんだと思っています。」

「私自身、販売は大変ですが、いい時代でやりがいもあるなと感じています。動物と同じで楽な時は人は何も考えません。危機感がある時は能力をフルに使ってでもなんとかしようとする。ただ、お茶にしても、急須にしてももう、最終コーナーであることは間違いないでしょう。良い品物を未来に繋げられない責任は誰ではなく自分たちにあり、そういう時代ですね。」

「大変な時代だよねえ。」

「ええ、ホントに。でも、これも順番と役回りなのでしょうね。」

君の名は、香駿。あ、蒼風もよろしく。

来歴:くらさわ×かなやみどり
この一文を読んで、「香駿(こうしゅん)」だね。「70-11-6」だったっけ?などと言える人はお茶に詳しい方でしょう。

品種茶を扱う私にとって「香駿」そして「蒼風」の存在は非常に大きなものです。蒼風の来歴はやぶきた×静-印雑131(静-印雑131はインドから持ち帰った種子からの実生選抜)です。

香駿の試飲などで行われたアンケートにある「やぶきたと明らかに違う。」の感想こそが意味を持ちます。

香駿や蒼風の最初から花や果実の茶とは異なる広がるタイプの香味は、真逆の凝縮された味が香りを生み出すような香味の山峡やおくひかりのような品種にも興味を持っていただける切っ掛けとなりました。

ワインの最初に飲んだ時のアタックが強いタイプと凝縮感がありアフターのあるタイプの比較にも似ています。

最も生産量が多く馴染みがある「やぶきた」を中心として針の振れ幅が大きい事。それは選択肢が2つではなく3つとなる事です。
 
「静-印雑131」や「ふじかおり」も同様に扱えるのですが、生産量が少な過ぎる事や品質の差が大きい事、いささか苦渋味が大きく日本茶としての紹介には二の足を踏む部分がありました。香駿や蒼風が存在しなければ、茶の品種についてを伝える事に今以上に苦労したはずです。

翻って考えれば、この品種が登場した事によって品種を楽しむ扉は大きく開かれた事になります。製法由来ではない原料の持つ特徴。そして製法の固定が出来ている蒸し製法による製茶。

香駿の品種登録は2000年、正に21世紀を目前にした登録であり、品種茶を提案する新しい世紀の到来でした。


急須が無ければバケツでも美味しくいれてみせるサ♪

私はお茶屋なので仕事柄、お茶をいれるのが上手な方です。当然と言えば当然ですが、
お茶をいれるのが下手なようでは料理が下手な料理人と同じでそもそもそれを仕事としてはいけないのです。お客さまの事を考えれば厳しい話しでも何でもありません。
 
急須などに茶葉をいれる時にどの様な茶葉をいれるのか、から始まり、急須の中で茶葉がどの様に動き、茶液が出て来るのかがイメージ出来ています。
それが出来れば実は急須でなくともそれなりにお茶を美味しくいれる事は可能です。

以前に「急須が無ければバケツでも美味しくいれてみせる。」と豪語していた知人がいましたが否定はしませんでした。何故なら私にも出来るからです。
 
そうなれたのは、やはり道具の助けがあったからです。何事も成功例があってこそ、失敗からの学びがあり、でなければ迷走するだけです。
 
確かに必要に迫られればバケツでも美味しくいれられますが、手元にある道具は良い品ばかりです。持っている急須の点数はきっと軽く三桁でしょう。一般の方は多いように思われるかも知れませんが20年近く商いをしていて急須を扱っていれば不思議ではない数なのです。

急須に蓋がいるのかって!?いるさ!モチロン!!

急須に蓋は必要なのか?
答えは当然「必要」です。特に「良質な茶を生産及び販売をしている。」と口にするなら、無くてもいいなどといった答えになる筈はありません。

日本茶は園地での栽培、製造、成分、水質などが相まって「低温度帯の湯(水)」を用いても比較的短時間で浸出が可能な茶種です。

「お湯を冷まさなくてはいけない」と言われますが、低い温度帯でもお茶がいれられるのは大きなメリットなのです

旨味成分が多く、軟らかな原葉を使用した日本茶の製造工程において、恒率乾燥(表面に出て来る水分と乾く水分を等しい状態)を維持しながら製茶を行えば表面から内側に向かって大きく味が変わるお茶が作られます。

※恒率乾燥の状態を維持するのは日本茶に限った事ではありません。これは茶生産の基本であり、烏龍茶製法の萎凋時における攪拌の大きな意味は恒率乾燥の状態を促す為です。

階層構造のようになっている茶の香味を引き出すには段階的に茶葉に与えるストレスを強くしていきます。

急須を使う場合の「ストレス」はお湯の熱です。闇雲に揺するといったストレスはバランスを壊し、煎を重ねる事によって楽しめる味わいを台無しにします。

茶葉に与える熱は「湯温」「湯量」「冷め方」によって決まるのですから、煎を重ねた先に更に熱を与えるには「冷めにくい」状態にしなくてはいけません。煎で言えばおおよそ四煎目以降。

一杯の茶を美味しくしたいとした時に温度のコントロールをするのに「蓋」は必要なのです。

「お茶は解く(ほどく)ようにいれる。」
「お茶は静かにいれる。」

これはお茶のいれ方の基本です。

時計の針を戻すようにお茶をいれましょう。お茶は最後に起きた事が最初に出て来ます。煎を重ねた先に蒸かした直後の香味や茶園で感じたような味わいが楽しめた時、それこそが「栽培、製茶、製造、お茶をいれる事の全てが上手くいった証」なのです。関わった人々の仕事の結実が「お茶」です。

お茶とは面白いものですね。