世界の縮図
きっと多くの人が自らのフィールドでは気づいている事と思うのですが、仕事としているからといって、その事の専門的な知識を有している訳でもない事。雇われている人であれば尚更である事。
自分のいる場所は世界を形作るもののひとつであって業態が変わっても大きくは変わりません。
例えば、生産者を含めた茶業関係者であっても茶の専門的な知識を持っているわけでは無いのが現実です。茶器問屋や販売店であっても同じです。既に出来上がった環境でのルーチンワークになっているのも理由のひとつで、儲かった時代があって出来た仕事は往々にしてそうなりがちです。
どの分野であっても、分かりたい、知りたい、もっといいモノをと思う気持ちを持ち続けない限り、専門的な知見や技術を有する者にはなれないのです。
及ばずながらと日々、学び過ごしても、向こう岸は霞んで見えないものだなと苦笑いするのが常であり、ゆえに面白いのです。
きっと何事も同じなのでしょう。
無責任の発露
この際、ハッキリさせよう。
茶に関しての品質や価値判断を美味しいや不味いといったあやふやな感覚でしか出来ない一般の消費者を巻き込み、評価をさせて商品価値を付けようとするようなイベントや試みは無責任の発露。
評価や拝見は栽培や製茶についての知見を有した者が行うべきもので、品質について明確に説明が出来る事が最低条件だ。
効率と呼ばれる針の穴
便利な世の中です。インターネットを通じた連絡や交流は数百キロ、数千キロの距離を一瞬に縮めます。インターネットと言わずとも、電話でも連絡は事足りて書類も郵便で送れます。
仕事の効率で考えれば既存の取引先数件へ早朝からクルマを走らせ、それぞれに打ち合わせと報告などは必要ない事なのかとも思います。
それがわかっていても、事ある毎に実際に会って話す機会をつくる様にしています。
その理由は効率と呼ばれる針の穴の外に大事なものがあると知っているからです。
視野の中心から外れたところにヒントがあったり、インターネットでは伝わらない空気感であったり。これも又、行間なのでしょう。
値段分の満足と品物
常滑焼の急須を見ていて思うのは、大人の買い物としてこんなに手軽に満足度のある品は他に無いのではないだろうかです。
工作機械による製造ではなく、ほぼ100パーセント職人のハンドメイドで価格は3万円程度で手に入ります。
その金額で手に入る消えモノでは無い、一級品は他に何があるのだろうと考えると即答に時間が掛かります。
身の回りを見まわして、鞄、時計、靴、服、カメラ、どれもその価格で満足度が得られるのかとなれば疑問です。
人は買い得な品を手にした時、とても嬉しそうです。百貨店での販売時、急須をお買い求めになられる皆様の表情が一様に嬉しそうなのには理由がちゃんとあるのです。
今が買い時です。売り言葉でも何でもなく、心からそう思います。
物語も味のうちだけど
私の様な商いをしていますと、お客さまがご自分の買われたお茶などをお持ちくださる事があります。
その中で最近、気がつくのは産直品の物語だおれのお茶です。
有機、最古樹、新月、満月といったコピーが躍りますが品質チェックが出来たならとてもその名で販売する事ははばかられるような物が多過ぎるように思えます。
物語も味のうちですが、やはり、最も大切なのはコピーと内容が釣り合っている事です。
摘期を逸した荒茶紛いの製品や、葉痛みや殺青不良の茶などが過剰なコピーで販売されているのを見ると 生産者が製品の拝見をし、どの様な品質であるのかを自ら確認出来るだけの能力を持つのはそんなに難しい事なのかと残念になります。