nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

お茶を見るということ

過日、数年ぶりに日本茶インストラクターに関連した試飲企画へ参加した。そこで気がついたことだが茶の内質についてを茶業者以外(茶業者で はないなと思われる方。)のインストラクターが主に急須をつかって確認している様子が目に付いた。はっきり言ってそれは間違いだ。

急須による内質確認は最後のチェック程度のものでそれを中心に考えてはいけない。審査茶碗などの道具を使用して拝見をしなければ、そのお茶がどのようなものなのかは分からない。結果、マトモなお茶の提案などは出来ない。

会場内で、審査道具は茶業者がお茶の欠点を見つけるものだと話している声も聞こえたが、それは「茶問屋の仕入れ時」のもので、「いれ方や喫茶メニューなどの提案」としてする場合は別の視点から拝見をする。

なぜ急須ではダメなのか?急須はお茶をいれる道具で調理器具に近いものだからだ。浸出液は急須ごとに変動するものであって急須によって香味が変化することは当たり前で何の不思議もない。

もっともシンプルな道具を用いて、茶器に由来する変動が少ない状態でお茶を拝見し、湯温が変化していく中も含め、(冷めた後も)香味の確認をする。そうしながら「お茶のいれ方や楽しみ方」などについてのマトリクスを組み上げていく。

それが、荒茶の仕入れの場ではない茶の審査であり、欠点を見つける為にするのでは無く、対象となるお茶がどのようなものを持っているのかを探すことなのだ。拝見道具での審査を難しいと思わずに是非、活用してほしいものだと思う。特に緑茶はその製法故にシンプルでわかりやすい茶種なのだから。

お茶の値段を上げるには

先日、某所にて茶価を上げるにはとの話が出ました。

「価格帯を上に設定しても他所から安いお茶が入ってくるだけなのだ。値段で買うならこの程度でしょうがない。その値段にしかならないなら、これしか作れない。」

お茶が美味しくなくなるのも道理で、負のスパイラルです。


茶価を上げるのであれば、出口の値段(販売価格)を上げる他ないでしょう。それが無理なのなら更に効率化を進めて現在の茶価でも利益が出るようにしていく。または海外などの別の売り先を見つける。ただ言葉の壁は決して薄くも低くもなく、面倒事は少なくありません。人件費が世界的に見て最高レベルの日本です。


販売の現場でこれまで一番売りやすいのは「値段」でした。お茶では詰め放題のイベントなどはその最たるものです。年数回のお祭りならそれもいいかも知れませんが定期的に、入れ替わり立ち替わりそんなことをしていればそれ目当てだけの売り場になっていきます。

商売でみれば客単価を落としてリピートの時間を長くするだけで魅力はどんどん失われていく。同じ品種、同じような製法、同じような味、別に差し替えが効くただの「茶」です。素人がなんとなく美味しい、「この値段ならこれでいいか。」と思えるようなお茶を作るのは難しいことではありません。

茶価が落ちないこと、販売価格が他に影響されないこと。それは「ならではの品」、「差し替えが効かない製品」をつくるしかないが私の結論です。品種、園地ロケーション、製造など。

ボヤボヤせずどんどん前へ進んでいく気持ちがなければ手遅れになります。何せ一番茶は年に一回しかなく、30年のベテランといったところで同じ園地の一番茶をお茶にしたことは30回しかない。機械が大きくなれば尚更です。


輸出や好景気に支えられた一大産業のような茶の時代は二度と来ないでしょう。その時代のお陰で本来の深くお茶の楽しむ為の下地は出来ました。
斜陽産業などではなく、新しい茶の時代の帳に立っているのが今です。

21世紀、個性的な品種に溢れ、お茶をいれる安全な水にも事欠かない時代です。少し出掛ければ園地も見れる。精度の高い自国産茶器も沢山あります。真面目にお茶のことを伝え、丁寧にお茶をいれればいいだけで茶の未来は明るいのです。

商いの秘密を公開します。

さて、今回はとても読んだ人が得な事を書きます。私の商いの秘密なのでちょっと勿体ないのですけれど。
 
急須を持っていない。ペットボトルのせいでリーフが売れない。茶業者がそう思っていてくれるのは実に助かっています。
 
ペットボトルは茶という飲料の裾野を広げてくれて、飲料メーカーが有名な俳優を使い、お金をかけてお茶の宣伝もしてくれています。テレビやペーパーメディア、インターネットでの動画配信などこれでもかの勢いです。
 
茶業者の言う通り、急須でいれたお茶の方が美味しいとするなら、積極的に飲んでもらう機会を作ればいいのです。その美味しさに触れた人が急須を持っていないなら、売るチャンスです。既に持っているモノを更に買っていただく事よりもハードルはずっと低い。
 
お茶はいれようと思いさえすれば、大した手間ではないのです。料理をするのに比べれば何倍も手軽です。お湯を沸かして注ぐだけです。時間もカップラーメンを作るより短くて済みます。
 
煎を重ねて変わる味わいや、ペットボトルやビン詰めの茶などとは異なる、「出来たて」の美味しさが僅かな時間で楽しめ、そこにちょっとした工夫で得られる達成感のオマケまであります。
 
他の業界の人が、茶と急須という文字を空欄にし、市場と商品提案の視点で見ればこんなに売れる土壌が出来ているのかと驚くのでは。
 
さて、というわけで、真面目に取り組めばお茶も急須も売れるのです。その事に気がつかずにいてくれると私の商いはとても楽で助かります。
大事なのは商いは飽きないであること。お客さまの為にの気持ちで仕事をする事です。
 

日本茶の明るい未来

茶業者となりお茶に関して人と話すことが増えた。

そんな中、「私は日本茶をほとんど飲んでこなかったのです。」という方に話を聞くことが時折あるようになった。もちろん、日本人で日本在住の方にだ。

数年前の中国茶のブーム以降、香りといえば烏龍茶や紅茶などのわかりやすい強い香気をいい、製茶に関して知識の無い者がやれ「萎凋香が!」などという難しい言葉を発したりする。
日本人の資格好きからなのか、わざわざ大陸などに行って様々な資格取得に熱をあげる人もいる。そのような方に日本茶について聞くと全く知らないに等しかったり、勉強をしたという中国茶に関してもペーパーの知識と短期間でお茶をこねくり回して飲んだ程度で底の浅さがすぐにわかることが少なくない。試験勉強で覚えた知識を深めるわけでもなく、結局は好きか嫌いか、美味しいか不味いかをグルメのように語っているに過ぎない。その位置から脱している人は極々一部だろう。

茶業者では無く、趣味の世界の話なのでいいといえばいいのだが、「何故、日本茶ではなく海外のお茶を趣味に選ぶのだろうか?」と一抹の違和感をふと覚えた。

疑問を胸の内で反芻し出てきたのは日本茶の業界にいる者としての「自戒」だ。中国茶を嗜好していた知人の言葉でよく聞いたのは「日本茶は美味しくなくて。」だ。茶業者になった頃は何を言ってるのかとも思ったが、今は違う。日本茶の世界を見回すと「その通りだね、申し訳なかった。」という気持ちになる。

日本茶を飲んで好きではないという人の感想は概ね次の通りだ。

1・色ばかりで、香気がすくない。イグサを飲んでいるみたい。
2・胃へのストレスを感じる。
3・どれもこれも似た様なもので、選択肢は価格しかない。
4・特別さを感じる楽しさが無い。
5・急須を使っていれても、詰まってしまいいれにくい。
6・茶殻がべしゃべしゃしていて捨てるのが面倒。
7・お茶について説明を求めても「これはいいお茶です。」などとワケのわからない説明しかない。 などなど。

ごもっとも過ぎて言葉も無いとはこのことだ。(2に関しては海外のお茶にもよく見られるので日本茶だけではない。生産地に関わらず起きうる欠点だ。)

20世紀末から21世紀へ、嗜好飲料の選択肢は広がり、海外からも色々なお茶がはいってくるようになった。前述の1点に該当するだけでも気持ちが離れそうなのに、丸々7点を併せ持つようなお茶に出会ったならそれらを乗り越えてでも、ワザワザ日本茶を飲む理由を探す方が無茶な気にさえなる。
これが今の現状で、しかも既にこのようなことが言われはじめて20年近くが経過している。

では、日本茶とはその程度のものなのか?それは断じてない。最も多く生産されている「蒸し製法の緑茶」は世界的にも珍しい製法であるとともに、特長のある香味を持つお茶だ。 抹茶の原料となる碾茶玉露はもとより(この2種は同じ施肥体系と栽培方法で作られている。)、それらの栽培方法を源流に持つ煎茶も「旨味」をベースにした味のボリュームを持っている。これは日本茶の大きな個性のひとつだ。

必要以上に色を追わず、ちゃんと茶温をあげ基本を忘れずにつくられた「茶」は植物のものではない「茶」としての豊かな香気を発する。これは世界で一番生産量が多い中国の緑茶(炒り製)とも異なっていて比べるものが無く、世界の大量にある「緑茶」のカテゴリーに納めてしまうことがもったいないほどのユニークさがある。

最近、ヨーロッパ圏での日本茶の感想が耳に届くようになった。私が以前に海外でお茶をいれた際には 外国茶以上に水質に左右される日本茶のデリケートさ故に、海外での嗜好品としての展開は難しいのかととも思っていたが、それも個性としてとらえ日本茶にふさわしい水の提案もあわせてすることでファンが増え始めているようだ。

昨今、日本においてあちらこちらで烏龍茶や紅茶製法のお茶や地方茶としての番茶に着目し生産をし始めている。それ自体はいいことだとも思う。私も10年前にイレこんだクチだし、得たものも多い。ただ、そこで作られるお茶は一見、珍しいように見えてもその多くが海外ではゴロゴロしているもので「日本で作られた」という以上のアドバンテージはほぼ無く、海外産のそれらのお茶は安価で良質なものが多いのを知っておくべきだ。

産地の規模、生産量、製茶技術、製茶機械や先達の研究成果などを鑑み、大事にしなくていけないのは新しいモノではなく手の中にあるお茶だ。

おいしい日本茶を作る為の道具も資材も環境もすべて揃っている。ただ、出来ていないだけだ。 自らの都合ではなく、「良いお茶をつくる。」ということに真面目に取り組んだお茶が生産され、相場に左右されない価値を持つお茶が増えることを切に望む。これが出来なければ日本茶の明るい未来などありはしない。

 

21世紀の茶とお茶屋の仕事

お茶を手軽に飲めるようにと言われますが、軽くキャップをひねるだけでいつでも飲めるようになった「茶」が大きな市場を有し、その目的はほぼ達せられています。
 
手に入れる気になれば24時間いつでも自動販売機やコンビニエンスストアなどでもお茶を買う事が出来る。お湯を沸かす必要もなく、こんなに「茶」が手軽に飲める時代になりました。これ以上手軽になどとなる事はありません。
茶殻を捨てる事も、洗い物も無く、美味しさもそこそこで、茶に対して過大な期待をしていなければ及第点です。無理やりに色や、鮮度を追ったようなリーフよりは何倍も飲みやすいでしょう。
 
そして茶系ドリンクの原料は紛うことなく「茶」です。原料茶として需要と供給が叶う生産体制でのぞめるのであればそれをするのが正しい姿です。換金作物を作る生産者としてそこに貴賎はありません。それどころか、資本が無ければそのような大量生産には向かえない事でしょう。広大な茶園で、高効率化された生産体制で年平均単価500円/kgの継続生産を目指す茶業も立派だと本当に思います。
 
私は資本として少なく、商いとしてその方向は出来ません。資本の少ない商いほど、よりスペシャルで価値が高く、価格もそれに見合った高価格である商いをする必要があります。
より高品質となれば、荒茶などは商品ではなく、製茶問屋の目的を持った仕上げ技術が必須です。山間地で園地面積が少なく、生産量ではなく、品質と高価格を目指す取り組み先は最高のビジネスパートナーです。
 
とは言え、高価格帯の茶といっても知れています。高くてもたかだか10000円/100gです。生産量の少なさと品質を考えればもっと高価格の食品は多数あります。高級腕時計や自動車のように、憧れても買えないような製品ではありません。酒のディスカウントストアに並ぶ洋酒よりも安いのです。
 
ひと世代前の、100g500円や300円でも美味しいなどと言う言葉を発する者は結局、茶の未来を喰いつぶしている人達です。
 
茶業に関わるのであれば、100g2000円、3000円の茶の美味しさを伝え、生産者はそれに見合うような茶づくりをする。茶価を上げると言うのならそれに見合った事をしなければ出来はしません。その価値を有さない製品を不釣り合いに高い値段で売るのはお客さまへの裏切りだからです。
そんな手間で面倒な作り方や売り方をと思うかも知れませんが、それをしない限り、私たちが残したいと思う日本茶の世界は存続されません。
 
日本茶が好きで憧れていた外国の若者が、一杯の茶を飲んで発した言葉は「日本に来てよかった。」でした。

この言葉を常とするように。大袈裟でも何でもなく、21世紀、茶に関わる者に託された仕事です。