nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

可能性

師走。

旅の出掛けにどんなお茶を持っていこうかと思い、自然に手にしたお茶。
 
お茶好きな友人が、私が初めて日本茶を飲んだ年なんですと嬉しそうにしていました。
 
同席した茶に通じた武道家が丁寧にいれたそのお茶はおだやかな風味と共に大切な時の流れを感じさせる一服となりました。
 
日本茶のビンテージを最初に想い描いた事よりも、楽しい出来事が未来にはありました。
 
私は最後に出来たらいいなと思っているお茶の姿はあるのです。理を重ねて重ねて、そして、それらを省けるようになった先に、まあ、お茶でも飲もうと一杯の茶をいれられるようになること。
そして、それが出来るようになった時、自分にはどんな茶の世界があるのだろうかとも思います。
 
その言に、茶道家は喫茶去なのかも知れませんねと。
 

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ティーペアリング

ティーペアリング。数年前に日本茶とフレンチを合わせたりもしたが、やはり、ワインの方がバランスもいいし、無理やり合わせる必要を感じなかった。

さて、私も最近、アルコール耐性が低くなって来たので、この事について再考する事がある。
 
食べて、お茶を飲むだけならペアリングなどと大層な言葉を使わなくとも、アルコールが飲めない人はこれまでも茶類や水を注文していた。その事にただ目を向けさせただけでは、だから何だとなって当然だろう。

新しい提案として目を向けるのは、口中調味と口内においてのドラスティックな変化についてにスポットを当てるのが基本になる。お茶でなくとも構わないのだけれど、それをお茶でやる事にそもそもの意味があるし、意味を持たせる。
 
例えば口内におけるドラスティックな変化の例。カスタードを食べてから熱めのコーヒーを口にして一気に溶けていくのを楽しんだり、ベクトルの同じ香味のシャーベットや果物と飲料を合わせて、印象を加速させたり。
ただ合わせるのではなく、動的な要素を織り込む。
 
結果として、口にした者が美味しいだけではなく、なんだコレとの表情と感想を残すような。ただ美味しいだけでは足りないのだ。
そうすれば、実際に体験したいとの欲求が生まれる。

そして、本当にエンターテイメント性を考えるなら、料理または菓子類を作る者との打ち合わせが必須になり、こんな風に出来ないものかとイメージを伝えて、それに合致するアイデアの出し合いの先に解があるものだろう。
その為には茶を担当する側にも技量が必要となる。その様な者がいったいどの位存在するのか。

と、ここまで書いていて、なんなのだが個人的には実はあまり興味が湧かない。

良質なワインには必ず隙間があって、料理とのバランスや、この肉にはこのワインを合わせないと勿体ないとの気持ちが働く。隙間や分からない数パーセントの部分、これこそが「合わせる」根の部分になっている。
 
本当にちゃんといれられた時の茶はその隙間が無く、完成した月輪のような存在であり、ショー風に扱う事や、合わせたら勿体ない。

私は良いお茶はお茶だけで楽しみたいのだ。いれ方の工夫、飲む器の工夫などまだまだ出来る事はある。

10年後の日本茶

お茶のテイスティングと横文字で書くと、ワインなどのシーンを思い浮かべて、産地を当てたりするようなものの様に思われるかも知れません。

実際には違います。

製茶問屋が行う審査(拝見)は荒茶を仕入れる際に茶以外の異臭(煙臭、油臭、薬臭)が無いか、それらも含めて製品とする時に問題となる部分が無いかの確認です。

相対で生産者が持ち込みで取引するような場合はその場で審査内容から値段を決め、製造に関しての注意や依頼をします。経験が豊富な製茶問屋であれば、次回の製造時における粗揉機の使い方や摘採の指導などもこの時点で行います。

仕上げなどの機械設備を持たない茶業者は製茶問屋からの仕上茶の見本を審査し、自らの扱い茶と出来るのかを判断します。ここでも一番注意をするのは異臭と製造時の不良です。納得すれば仕入れとなります。

私の場合、少々趣が異なって来ます。シングルオリジンの製品が多いので土地や品種のキャラクターがあるのかを確認します。工芸作物作物である茶は形状を保持するオーソドックスな製茶であれば生産者毎の違いは必ずあるものです。園地へ行き、生産者や製造の現場に行く経験を重ねれば、更に違いが分かるようになります。
園地でのチャの様子は生産者毎に違うのですから当然と言えば当然です。

そして、審査の際に考えるもうひとつは何をこのお茶は持っているのか?です。

一杯の茶とする為の元は茶葉そのものであって、その中に無いものは出てくる筈も無い。無い袖は振れないです。では、有るのであればそれはどんな風にしたら特徴豊かに出せるのかを考えます。

喫茶やセミナー、メニューなどに日本茶を扱ってくださる取組み先諸氏への情報提供や催事などでお茶を上手にいれたいや、こんな風味のお茶を飲みたいとするご希望に合わせるのに必要な審査です。
私が商いを始めた頃、この様な視点でお茶を見る業者はいませんでしたし、今でもいないか極少数でしょう。何故なら経験に加えて、お茶をいれる事、茶器に関しての興味と知識、香味の理由を理屈で考える事などが必要であって一朝一夕には出来ないからです。そして、出来たところで何よりもお金になり難いものなのです。

20年近くこの様な仕事をして来ましたが、これらの積み重ねの先で、私などよりも優秀な取引先が仕事としてお客さまに喜んでいただけている様子を見ると続けて来て良かったなあと思います。
次の階段は私の立ち位置での審査のエッセンスがお茶を見る事の面白さとして一般の人にも広がっていくといいなと夢想します。

日本茶を取り巻く環境は大きく変わろうとしていますが、10年後にもっと世界の人が日本茶を楽しめているように。
その種は確実に蒔かれています。

完全無欠

料理とは元のものより、美味しくする事ですよ。
料理をしてその前よりも美味しくなってこそです。

友人のシェフの言であり、私もそう思います。
お茶のアレンジも同じです。湯や水でいれた一杯の茶より美味しくなくなっているのなら、イタズラをしただけで遊びにも等しく、勿体ない行為です。
そして、お茶というのは厄介であり良品であるほど、ちゃんといれられた一杯は完璧でアレンジする事を躊躇うものです。

「このままが一番美味しいですね。」
「今はもう何も口にいれたくは無いわ。」
「日本に来て良かった。」

そんな一杯のお茶の香味に触れたシェフのひと言、海を越えて山の茶園に訪れた人々の言葉はお茶を呈する者にとって正に金言。

茶と共に歩んで来た優れた道具と積み上げ更にを目指す製造の技術、そして品種。

お茶はまだまだ、お茶だけで人の心を動かせる一杯になり得ます。これは必ずです。

気づくのはいつも当たり前のことばかり

考えて、学んで、生きて、いつも気づく事は当たり前過ぎることばかりです。

結局、私たちが人として生きる最大の目的は受け取ることと、渡していくことなのでしょう。
親から子へ、子から孫への繋がりだけでなく、先人から後進へと渡していくこと。それが出来れば人は本当の意味で死ぬことはない。

小さな自らの器ですが、受け取れて良かったと思え、それを渡せる希望が感じられることがただ嬉しい。その事実に感謝を覚えます。
そして、後進が更に次の未来へと渡していけるように頑張ろうと。

本当に全くもって当たり前のことなのでしょう。こんな当たり前のことに気づくのに半世紀近くも掛かったのかと呆れてしまいます。

出来るだけ長生きをしましょう。目的に向かって。

地球に優しい

卑怯なセールストークのようで少々言葉にするのが憚られるのですが、急須がいらないティーバッグやドリップタイプといった茶葉以外のゴミが出るような商品はエコロジーの方向からはズレているという事を企画、販売する者、買う者は心の中に留めておく方がいいです。これはお茶以外のコーヒーなどでも同じです。

利便性と称して製造時にも余分なエネルギーや資源を消費している事。自分に優しく、環境に優しく無い事をしているのです。私自身、ティーバッグを販売もしていますが積極的にとは思っていません。

利便性で大量消費を喚起する時代から半歩でも距離をおいてみるのもいい頃かとも思います。

時代がぐるりとひと回りするように、急須でお茶をいれるのは環境にも優しい最先端へ。
何せ上手に使えば一生使えて、捨てるのは茶葉と入っていた茶袋だけです。茶葉は家庭菜園などの肥料にもなります。

ガソリン使って、電気も使って他、私も含めて人が生きるというのは環境負荷の塊のようなものですので、この様な事を書くのはちょっとチクリとする部分もありますが、敢えて一言とさせていただきました。

家に急須が無い?

急須の無い家が増えてなどと言われますが、お茶の歴史を振り返れば、家に急須が無い時代の方が圧倒的に長かった事を知らない人がほとんどです。

一般の人々の生活の傍らで使われたのは、土瓶が主でそれも江戸後期になってやっと火に掛けられないタイプが登場します。土瓶以前は鍋釜のようなもので煎じた茶を器にすくって飲んでいたのが普通だった様です。

私達がよく知る、拳大の急須が一気に一般家庭に広がっていくのは戦後であり、決して大昔の出来事ではありません。

人は自分の寿命の長さで昔からとの言葉や思考をしがちです。歴史を学ぶというのは過去を知り未来を想像することにも繋がります。

現代の番茶であるペットボトルなどのドリンク茶によって裾野が広がり、急須でお茶をいれるムーブメントは30台半ば以降の人達に注目されています。

これからの時代が実に楽しみです。