nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

完全無欠

料理とは元のものより、美味しくする事ですよ。
料理をしてその前よりも美味しくなってこそです。

友人のシェフの言であり、私もそう思います。
お茶のアレンジも同じです。湯や水でいれた一杯の茶より美味しくなくなっているのなら、イタズラをしただけで遊びにも等しく、勿体ない行為です。
そして、お茶というのは厄介であり良品であるほど、ちゃんといれられた一杯は完璧でアレンジする事を躊躇うものです。

「このままが一番美味しいですね。」
「今はもう何も口にいれたくは無いわ。」
「日本に来て良かった。」

そんな一杯のお茶の香味に触れたシェフのひと言、海を越えて山の茶園に訪れた人々の言葉はお茶を呈する者にとって正に金言。

茶と共に歩んで来た優れた道具と積み上げ更にを目指す製造の技術、そして品種。

お茶はまだまだ、お茶だけで人の心を動かせる一杯になり得ます。これは必ずです。

気づくのはいつも当たり前のことばかり

考えて、学んで、生きて、いつも気づく事は当たり前過ぎることばかりです。

結局、私たちが人として生きる最大の目的は受け取ることと、渡していくことなのでしょう。
親から子へ、子から孫への繋がりだけでなく、先人から後進へと渡していくこと。それが出来れば人は本当の意味で死ぬことはない。

小さな自らの器ですが、受け取れて良かったと思え、それを渡せる希望が感じられることがただ嬉しい。その事実に感謝を覚えます。
そして、後進が更に次の未来へと渡していけるように頑張ろうと。

本当に全くもって当たり前のことなのでしょう。こんな当たり前のことに気づくのに半世紀近くも掛かったのかと呆れてしまいます。

出来るだけ長生きをしましょう。目的に向かって。

地球に優しい

卑怯なセールストークのようで少々言葉にするのが憚られるのですが、急須がいらないティーバッグやドリップタイプといった茶葉以外のゴミが出るような商品はエコロジーの方向からはズレているという事を企画、販売する者、買う者は心の中に留めておく方がいいです。これはお茶以外のコーヒーなどでも同じです。

利便性と称して製造時にも余分なエネルギーや資源を消費している事。自分に優しく、環境に優しく無い事をしているのです。私自身、ティーバッグを販売もしていますが積極的にとは思っていません。

利便性で大量消費を喚起する時代から半歩でも距離をおいてみるのもいい頃かとも思います。

時代がぐるりとひと回りするように、急須でお茶をいれるのは環境にも優しい最先端へ。
何せ上手に使えば一生使えて、捨てるのは茶葉と入っていた茶袋だけです。茶葉は家庭菜園などの肥料にもなります。

ガソリン使って、電気も使って他、私も含めて人が生きるというのは環境負荷の塊のようなものですので、この様な事を書くのはちょっとチクリとする部分もありますが、敢えて一言とさせていただきました。

家に急須が無い?

急須の無い家が増えてなどと言われますが、お茶の歴史を振り返れば、家に急須が無い時代の方が圧倒的に長かった事を知らない人がほとんどです。

一般の人々の生活の傍らで使われたのは、土瓶が主でそれも江戸後期になってやっと火に掛けられないタイプが登場します。土瓶以前は鍋釜のようなもので煎じた茶を器にすくって飲んでいたのが普通だった様です。

私達がよく知る、拳大の急須が一気に一般家庭に広がっていくのは戦後であり、決して大昔の出来事ではありません。

人は自分の寿命の長さで昔からとの言葉や思考をしがちです。歴史を学ぶというのは過去を知り未来を想像することにも繋がります。

現代の番茶であるペットボトルなどのドリンク茶によって裾野が広がり、急須でお茶をいれるムーブメントは30台半ば以降の人達に注目されています。

これからの時代が実に楽しみです。

私の仕事

一杯のお茶。そのひと口に、人の心は動く。

ある武道家は知ってしまったからにはと背筋を伸ばして日本茶カフェの店頭に立つ。

ある外国の若者は職を辞してでも日本茶の世界に身を投じ、世界を飛び回る。

ある職人は茶を楽しむ為の道具に心を込める。

ある者は少しでもその姿に触れたいと険しい山道を登る。

山の茶園、慣れない山の作業の合間での小さなお茶会。そのお茶の生まれた土地での一杯の茶。
たなごころを伝わる温かさとふわりと薫る茶の香り。
止まる時間の先にある笑顔。動き出す時間。
自然とささやく様に、美味しいだけじゃないとつぶやく声。
山の茶園、その一杯の茶。

ある者は一杯のお茶が人生を変えることがあると。

ある者は日本に来てよかったと。

一杯の茶が開く日本茶の扉。
そんなお茶を私は伝えたい。それが私の仕事。

 

存在しない品評会茶

実際の話からすれば「全国品評会」やそれに類する基準の出品茶は一般的に流通する茶の原料となる荒茶とは乖離した製品です。その最も顕著なのが「深蒸し茶」とされたお茶でしょう。

通常に流通している「煎茶(普通蒸し)」「深蒸し煎茶」などは生産者が自己申告で作っているもので基準はありません。

これが普通蒸し?と首をかしげるような物はよく見かけます。一般向けに販売されている茶は色を意識して破砕されたお茶を混ぜていることもあります。
販売品は蒸し製の緑茶で形状のある製品と粉状になった製品くらいの違いしかないのが現状です。

普通蒸しとされた製品よりも蒸けていない、青臭くて苦味のある深蒸し茶は少なくありません。

この様な状況故に、品評会のお茶は乖離せざるを得ないのです。品評会は荒茶の製造基準を揃える為のものである事に気づければ容易に理解出来ます。

さて、生産の現場を見れば、この流れが変わることは無いでしょう。鮮度感と水色に依存した製品づくりの方が生産効率は高く、また、製茶機械が大型化しその方向へシフトしたのはもう過去のことで、今更の方向転換は出来ない。これは何もお茶に限ったことでもありません。

品種ごとの差を感じなくなり、どこでも同じお茶が作れるようになれば、生産時期は早ければ早いほどいい。年間の平均単価が三桁/㎏でも継続生産が出来るような経営。園地から荒茶製造までを含めて工業製品としての「茶」を目指す。

加えて先日の碾茶や抹茶に関しての基準緩和のニュースは茶の買い手が、茶業者から食品関係商社や食品メーカーに変わっていく事も表しています。いよいよ、苛烈な戦いとなるのが感じられます。

そこに巻き込まれないようにするにはどうするのか?

それこそが中山間地生産茶のテーマであり、同じ方向での勝負では勝ち目は無いことは誰でもわかることです。元来、いいモノとは沢山は出来ないモノです。それが手作りに近くなればなるほどです。メインストリームには端からなる筈がない。これは、今までの茶の歴史を振り返っても変わりません。

農薬を使うこと

過日、南洋紅茶からは残留農薬が検出されないのですよとのひと言がありました。
日本茶中国茶台湾茶からは基準以下、基準以上は別にして検出されます。
 
何故なのかを考えた場合、製造されている紅茶の9割近くはブロークンタイプとなり、ティーバッグなど高品質なものではないことなどが理由のひとつではと考えられます。
 
農薬は資材であり、タダでは無く噴霧にも労力と時間が掛かります。そして、広大な面積と気候は摘採と製造が連続的にされていること。
安価なものに費用は掛けないのはどの世界でも共通です。
 
以上を念頭にして考えてもましょう。
恒率乾燥が必須となる高品質な烏龍茶や製品の美しさが製品の価格に直結する中国緑茶などは原料となる茶葉の品質が問われます。
 
虫害や病変による新芽を少ないようにするにはどうするのか?方法は3つです。
 
①病変や虫害などの被害葉は摘まないようにする。
②防除などの管理によって病変、虫害を防ぐ
③技術としてオーガニックが出来るようにする

①と③は技術と経済的な面で非常に困難です。②が最も現実的ですが、農薬の希釈率や使用から摘採までの期間を守ることなど「生産者」の理解と使用方法を守る部分が必ず必要になることを忘れてはいけません。
 
防除履歴や防除の方法、製品の残留成分の確認もセットとなれば慣行が最も高品質になるのは本来、当然の流れです。