nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

人の使命

人は経験と齢を重ねた時、次世代を育てる役割を持つ。そうなれるように生きるのが人であると信じている。

先人、先輩諸氏に自らが未だに教えられ、庇護されているとしてもだ。その庇護に感謝しながら、先達が口にするキサマ如きがとの指導も飲み込みながら届かぬ未来に繋がる何かに取り組む。
それは先人の知と想いを繋げる事だ。

全ての人において、未来は確実に減じ、終焉を迎える。それは常であり覆される事ではなく、覆していい事では無い理。

齢を重ねた者が自らを子供だなどと言うのは卑怯者の言い逃れ以外の何物でもない。
 
人は大人になる事を希求し、それを成さねばならない。その事について及ばぬとの自覚があったとしても歩むのだ。
 
明日、この世から消えるとしても先人から渡された何かを次に伝えられる存在となろう。叶わずともそうであろうとしながら。

それがそれこそが人の使命だ。

ビビったら負け

過日、お客さまとの会話。
妄想に近い位のイマジネーションとビビらない事がお茶を上手にいれるのには大事です。
さて、妄想とすると何ですが、サイエンスフィクションの領域なのでしょう。拝見や観察を続けて行く中で、視覚情報と官能を組み合わせながら、茶葉の細胞から浸出液が滲み出る様子や、茶葉の間を茶液が通り抜けながら茶漉し、注ぎ口までに到る様子が想い描ける。
映画などの映像表現も一助となっているようにも思います。
ビビったら負けというのは、緊張したり、空回りではお茶は美味しくはいれられないものという意味です。

茶葉を選んで、条件を整えたら自然体で邪魔をしないことですね。その条件でしか、お茶ははいりません。
待たなければいけないのに待てなかったり、行き過ぎてしまったり。
難しそうに思えるかも知れませんが、茶葉を見ていればわかるものです。そして、わかるようになる為に考えたり、経験を積んで自分の一部にしていく。

たかがお茶ですが結構、面白いものです。

これからの買い物

如何にして売らないかがここ5年のテーマでした。売上を上げるのを止めるのではなく、目の前の売上を追うのではないようにです。

必要なモノを買う行為はアマゾンに敵わないことを認める。
通常の売り方で対アマゾンとした場合、地域密着の生鮮三品購買顧客のついで買いを促進出来なければ存在価値が無くなります。手間をいかにして掛けないように売買を行うかがモノ売りの目から見た表面的な図式であり、その点でアマゾンを凌駕するには、触感や空気感、臭いなどインターネットからは得られない情報をその場で伝えて購買に繋げるしかありません。
 
そして、今後、百貨店など接客販売の存在は別のものへと変わると想像しています。買い物の単純化は現実での接客体験の減少へとなって行きます。人口の過疎化が進む地方はアマゾンなどの通販に席巻されていくのでしょうが、人口密集地である首都圏は高齢者の行き先は百貨店のような場所になっていきます。
 
これまで、物々交換の道具であった「お金」がモノだけではなく、コミュニケーションの為の道具となり、買い物は必要なモノを手に入れる為のものではなく、「買い物=娯楽」になる。
買い物を娯楽と出来る商域はやはり、接客と商品点数の多い商業施設となるだろうと考えます。

ファンタジー無用

お茶や急須に限った事ではありませんが、作り手は自らの作ったものの価値や評価は出来ないのです。手間や時間などについては話せても、何を作れたのかの評価は自分では出来ない。
 
商いを通じて仕入れを行い、お客さまに品々を販売をしていくことを生業とする者は、多くの品々を見て学び、どの様なことがされて、どんな手間が掛けられているのかを知る機会があります。そして、出来不出来も含めて、品物の価値を認める目利きになる役どころを担います。大事なお金を無駄にしてしまわないように。
 
私の扱っている品は生産量が少ないため、取引先も限られているので遍くとはなりません。卸のご相談をいただいても、既に行き先があり、お応え出来ない場合がほとんどです。申し訳ありません。それであっても、私の主な仕事は裏方です。
販売の経験から顕在化はしていないけれど求められていることなどをお話しして、それぞれの商圏での展開について提案をしたりも。
取組み先も年々成長し出来る事、知識も増えていき、何年ものお付き合いをしている中で、ようやく産地ではなく、消費地だからこそ伝えられることがあると思えるようになりました。
 
聞こえのいいファンタジーなんていらないのです。伝えたことに嘘がないように。そんな品々を選んで売ること。
 
買う側だから、使う側だから伝えられることがある。品物の何が好きで、どんなところがいいのか。どうして、それを買うのか。好きの気持ちと目利きの力を重ねて。
 
売る側にも近道などなく、時間を掛けずに得られることなど僅かです。
 

お茶と急須は同じもの

2014年2月に平型急須の主力展開を始めて、概ね4年です。手づくりの品故に、大量にとはなりませんが、同コンセプトの総生産は数千個です。作り手ほか販売に携わる取り組み先、そしてお客さまのおかげです。
販売数の噂や視覚面での訴求力も相まってか、類似品も出回るようになりました。それも業界の常であり良いことです。他の方々も私たちの試みをヒントにして更に良い品を世に出していく工夫をなさってくださればと思っています。
 
作り続けることは常に最良を目指すことです。ベテランの急須職人であっても慣れない面倒な形状の急須ですが、生産と販売を繰り返し続けていく中でサイズや全体のバランスが洗練されるのを品物から感じます。
そして、正に一期一会である焼物としての美しさにも気づきます。
  
高精度の仕事と人の手が及ばない偶の結晶である急須と、高品質を目指した生産を重ねていきながらも、野趣を失わない日本茶
私の心が動き、真剣になるものの本質はどちらも同じです。
 
それらをお客さまが普通の日常で楽しめる世界をつくる手伝いが私の商いなのでしょう。
小さな商いですが、とても楽しく、やりがいのある仕事が出来ています。本当にありがたい事です。
 
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お茶は正直

時折、お茶は拝見で分かるのですかとの質問があります。
 
お茶は正直なものですので、拝見をする事によってどのような原葉で、どんな事があったのかがわかるものです。
 
果汁を原料にした飲料や粉体化されたものに比べて、茶葉そのものを見る事が出来る茶はその正体を探るヒントがいっぱいあるのです。
 
勿論、わかるようになるには園地を見たり、摘採された茶葉、そして荒茶が生産される様子を知らなければなりません。茶園に行き、製茶を見れるような縁を求める手間を惜しんでは不可能です。

日本茶を学ぶ君へ

先人が後人に望む事は何か。

それは自分の見れなかったもの、行けなかった場所、出来なかった事にたどり着けるように。そして、長命であるように。

この事に尽きる。後人もいずれ必ず先人となり、知の連結は更に次の後人の役にたっていく。

先人は若さを妬まないこと。後人は霞む未来に怯まないこと。

この連鎖こそが人を不死とする。

荒唐無稽な戯言ではなく、人が学ぶ事の意味であり、真理だ。