nishikien’s blog

お茶に纏わる事柄をつらつらと。

茶業者となって

茶業者となってやらなくてはいけないと思ったのは、お茶の事を分かるようになろうでした。

資本力など無く、近しい人たちの縁故に頼るような商いで売上が少ない事に焦りや怖さを感じていました。

でも最後に必要になるのは得た知識を伝える事とそれに支えられた自信、更なる知識を積み重ねる勉強の繰り返しが自分の未来を作ると闇雲に信じていたように思います。

多くの人に学び、学んだ事を礎にして推論をし間違えて恥をかいてもやり直しをする繰り返しでした。

惜しげも無くアイデアや知識を伝えますねとも言われますが、人から聞く知などは全て過去の事です。私程度の者の言葉など然したる意味は無く、それを元に自分ならではの何が出来るのかこそが大事です。惜しむ理由などはありません。

先人の誤りも知識のひとつであり、それに責は無く、何故それに到ったのかを知る事に意味があります。

持ち前の運の良さも手伝ってか取組先にも期待を頂けるようになり、最近は及ばずながらも後進の手助けが出来るようになりました。

時間は掛かりましたがやっとスタートラインからサーキットを見ている気分です。
これも皆さんのおかげです。
ありがとうございます。

同じではない

形が同じ様に見えても同じではないこと。

 
大陸において火にかけて煮やす為の道具として端を発した横手の注器、茶銚とも呼ばれました。時代と共に、火に掛けずともいれられるお茶が大勢を占める中、時流に乗って生産が拡大し、「急須」は一般の人達が使う生活雑器となり産業化して行きました。
 
かつて、火に掛けていた時代の名残は歴史のある土地の品に多いのも納得であり、それも痕跡器官に。
 
火に掛けない道具として作られたのが常滑急須です。原料土や茶漉し、大きさに形状はその前提の上にあります。火に掛けない事が当たり前になっていて作り手さえもその事を考えず、故に知らないのです。
 
作れば売れた時代は競争の中で作り手の技術を育て、淘汰して来ました。大昔の事でありません。戦後のわずか数十年の出来事です。
 
何でも売れた時代が去り、培った技術や急須についてを落ちついて考えて見れる時代が今です。これは日本茶も同じです。
 
数十年を経て、お茶をいれる「道具」として完成の域に達したのは極めて最近です。
 
伝統とするのであれば、それは正にこれから始まるのです。特別な場では無く、私たちの生きる生活の中、そしてその時代に。

何代もかけて何を

先祖代々といった様なコピー。それを自慢出来るような製品を作れていればその文も説得力を持つけれど、製品がどうと言う事も無ければ一体、何代も費やして何をやっているんだろうとなります。

お茶は狐葉とも呼ばれますが、むしろ逆です。とてもシンプルな加工品で見る人が見れば分かってしまうものです。

そして、お茶に限らず、現在の産業の起点はお金になりやすい、儲かりそうだとの判断で始まっているものが殆どであった事。儲かった時代が続いたのでその事を忘れてしまっているように思います。衰退した産業を見る通り、儲からなければ次へと動くのが普通です。

それでもと踏み留まり必要とされるには、値段か品質で勝負する他ありません。

さくらかおり

桜の澄んだ香りをお茶で楽しむひととき、春はいつでもそこに訪れます。(フェリシモにてさくらかおりを販売いただいた時のコピーです。)

静-7132を扱い始めて17年ほどになります。広尾の日本茶カフェ「蒼庵」にてのメニュー「さくらかおり」の名称を私が引き継いだのは2004年でした。
 
ホームグラウンドの静岡伊勢丹試飲販売で「よく伊勢丹には来ますけれど、このお茶の事は知りませんでした。」のお声をいまだに耳にすることが多い中「桜の香りはともかく、このお茶、美味しいですね。」の感想と共に手にとってくださるリピーターのお客さまもいらっしゃる様になりました。
 
商いとは飽きずに続けることの言葉もさくらかおりを扱っていてしみじみと感じます。

Sakura Kaori
The young tea leaves are red and give off the aroma of Sakura, the cherry tree.The more time passes, the more glamorous aroma comes out.
It is the mysterious magic of nature which only over 30yrs-old trees have.With this tea, the air is redolent of spring.

萎凋、萎凋香を語る浅学

萎凋や萎凋香といったキーワードは魅力があります。私もかつて通った道であり、自らの浅学を恥ずかしくも思います。
 
私は茶業者や茶の関わる人たちが萎凋による花香など表面的な部分に心が奪われている事に気がつけるといいのだけれどと淡い期待をしています。
萎凋によって生まれる製茶の困難さに意識が向かない茶業者が多いのが現実だからです。何が起きているのかを考えもせずに難しい難しいなどとするのは愚かな事です。
 
茶葉内から水分が減ずる事によって何が起きるのか?伝熱の不揃いによって何が起きるのかを考えられたらと思います。
 
萎凋工程のある製茶で欠点が発生し難いのが蒸し製ではなく炒り製であること。芯水を切っていくのに、蒸しムラや殺青不良がマイナス要因であること。芯水を切っていく、恒率乾燥を行う。その為にどんな原葉が必要となるのか。
 
茶種の差はなく「しとり」のある製茶を行うこと。これは基本中の基本であり、その意味が分からないのであればお話しにもなりません。
 
製茶にファンタジーはありません。見えない部分は自らの知見がそこに届いていないに過ぎない事を認めるのが肝心です。

玉露、碾茶、 抹茶

昨年来、玉露碾茶についてを考えていますが特に玉露と煎茶の区別は栽培方法であり、その栽培の環境にこそ茶種の違いがあるのだと思えます。

栽培環境が茶種を分けるのであれば、化学繊維を使用した遮光とよしずや藁を使用した遮光では被覆下の気温(化学繊維下は温度が高く、天然資材の場合は気温上昇が押さえられる。)や湿度も異なるので同様の製品とするには無理があるとするのが正しいのに、それを示せないのはやはり、欺瞞なのでしょう。

海外での抹茶(碾茶)の生産についてのニュースも耳にする昨今、被覆茶の産地の方々にはその点も含めて、明確な違いについてを伝えて欲しいものだと期待します。

そして、どうせ分からないだろうと、粉末煎茶を抹茶と称して国内外に販売するのは余りにも無責任で守銭奴の行為としか私には思えません。

美味しいの罠

ただ美味しいを基準にしない事。子供の頃、初めて食べた物を美味しく感じて、経験を重ねた先に然程ではない事に気がついたこともあるでしょう。
年齢を重ね、その物に対しての期待値が低く、慣れていないもの程、最初の美味しさを必要以上に特別視してしまいがちです。
それは美味しさの罠のようなもの。
沢山の物を口にして来たのであれば、美味しさのその理由を考えられるくらいにはなりたいものです。